ソグド語(Sogdian)とバクトリア語(Bactrian)の世界的な世界的な権威であるロンドン大学・東洋アフリカ学研究所(SOAS)のニコラス・シムズ=ウィリアムズ教授(Professor
Nicholas Sims-Williams)は,9月23日,東京池袋の古代オリエント博物館で,古代アフガニスタンのバクトリア語文書の発見と解読について講演を行った。バクトリア語は,中期イラン語のうちもっとも未解明の言語で,ギリシア文字の一種で書かれた新発見の大量の文書の解読が,シムズ=ウィリアムズ教授の手によって進行中である。
講演に先立ってシムズ=ウィリアムズ教授は,シルクロード研究所(鎌倉)の平山郁夫所長から,本年度の平山賞を授与された。これは,北アフガニスタンのラバータクで発見された碑文の解読と研究の論文(大英博物館のジョー・クリブ博士と共著)に対して与えられたものである。
- ヒンドゥークシュ北部出土のバクトリア語文書を中心に -
ロンドン大学教授 ニコラス・シムズ=ウィリアムズ
北アフガニスタンのバクトリアの古代の言語であるバクトリア語は、イラン諸語の中で唯一ギリシア文字で書かれている。これは紀元前4世紀のアレクサンダー大王によるバクトリア征服の名残である。これ以後ギリシア文字で書かれたギリシア語は、長い間バクトリアにおける文化と行政の唯一の言語だった。バクトリアが北からの遊牧民族によって征服された時、この新しい支配者であるクシャーン朝の王達は最初は行政用語としてギリシア語を使いつづけていたが、間もなく同じギリシア文字を用いて土着の言語、バクトリア語を書くようになった。この言語の歴史における決定的瞬間は、クシャーン朝のカニシカ王がバクトリア語を貨幣銘の言語として採用した時である。カニシカ王の最初期の貨幣以後ギリシア語は貨幣銘から消失して二度と姿をあらわさず、バクトリア語に置き換えられる。
西暦紀元後の最初の何世紀かの間、バクトリア語は世界のもっとも重要な言語の一つといってもおかしくなかったろう。クシャーン朝の王の言語として、バクトリア語はアフガニスタン・北インド・中央アジアの一部という大帝国の至る所で広く知られていただろう。クシャーン朝が崩壊した後でもバクトリア語は少なくとも6世紀の間使われつづけた。パキスタンのトチ(Tochi)渓谷にある9世紀の碑文[Slide 1 9KB]とはるか離れた中国のトゥルファン・オアシスから出土した仏教とマニ教の写本がそれを示している(このスライドは[Slide 2 12KB]ベルリンのトゥルファン・コレクションにある唯一のマニ文字で書かれたバクトリア語のテクストである)。こうして文化言語としてのバクトリア語は、ほとんど千年近くも続いたのである。
40年前までバクトリア語について知られていたことといえば、わずかにクシャーン朝の王達とその後継者達の貨幣銘だけだった。クシャーン朝の貨幣銘は、おそらくは碑文のスタイルをまねた角張ったタイプのギリシア文字で書かれていた。原則としてこれらの貨幣銘は読むのに困難はない。だがその内容は、王や神々の名前、称号などに限られている。クシャーン朝以後のバクトリアの支配者達(クシャノ=ササン朝・キダーラ・エフタル・チュルク等)の貨幣銘は、写本のスタイルをまねた草書体のギリシア文字で書かれていて、はるかに解読が困難である。これに似た草書体で書かれた写本の小さな断片が幾つか知られている。しかしその数は少ないし、不完全なものばかりで、まともな解釈の見込みはほとんどなかった。
1957年にバグラン(Baghlan)の近くのスルフ・コタル(Surkh Kotal)から初めてまとまったバクトリア語の碑文が発見されたことで、この見込みはすっかり覆された[Slide 3 23KB]。既にクシャーン朝の貨幣銘から知られていた記念碑体の文字で書かれたそのテクスト自体は、さほどの困難もなく読むことができた。しかし、貨幣銘から知られていた名前や称号は、語彙の点では極めて乏しく、この言語の文法構造についてはほとんどヒントも与えない程度だったので、解釈のほうはそう簡単ではなかった。にもかかわらず、ヘニングW. B. Henningによって主要な点は直ちに認められた:すなわち、ここに述べられているのは、神殿の聖域がカニシカ王によって創設されたこと、その後そこが水の枯渇のため放棄されたこと、さらにカニシカ紀元の31年(カニシカ王の後継者フヴィシュカの治世の初め)に、ヌクンズク(Nukunzuk)という名の高官によって聖域が修復されたこと、である。
スルフ・コタルの碑文以後バクトリア語の碑文は幾つか発見されたが、大部分は保存状態も悪く、バクトリア語についての我々の知識はさして改善されなかった。ところが1993年になって、根本的に重要な新しい碑文が、スルフ・コタルから遠くないラバータク(Rabatak)というところで偶然発見されたのである。[Slide 4 18KB]
ラバータク碑文はカニシカ王の治世の最初の年の出来事を、ダリウス大王のビストゥーン碑文と驚くほど似通った調子で描写する。この碑文の詳細な分析は既にジョー・クリブJoe Cribbと私によって『シルクロードの美術と文化』(Silk Road Art and Archaeology)の最新号に発表されているので、ここではもっとも重要な点を幾つかあげるにとどめる。
冒頭でカニシカ王は「偉大なる救い、正しく、義なる支配者、神として崇拝すべき者、その王権はナーナー(Nana)神とその他の神々から授けられし王が、その第1年を神々に望まれて開始した」と呼ばれている。これに続いて注目すべき一節があり、「彼はギリシア語で勅令(?)を発し(?)、その後それをアーリア語にした」とある。原則としては、インドとイランのいかなる印欧語でも「アーリア語」と呼びうるのだが、カニシカが「アーリア語」という時は、それは明らかに、碑文の言語であるバクトリア語であろう。これはちょうどダリウスが、「アウラマズダーの加護によって、前には無かったもう一つの碑文をアーリア語で作った」という時、碑文の言語である古代ペルシア語をさして言ったのと同様である。ここでカニシカが「アーリア語」を強調していることと、貨幣銘でギリシア語に代ってバクトリア語が用いられるようになったこととの間に連関を見ないことは難しい。貨幣銘の研究からは、この交代はカニシカの治世の非常に早くに起こったことが分かっており、それはまさに治世の第一年目であったということも十分あり得るのである。
ラバタク碑文の4-7行目は、カニシカが支配した北インドの主要な都市の名前をリストする。5つの都市のうち4つは同定できる:サケータ(Saketa)、カウサンビー(Kausambi)、パータリプトラ(Pataliputra)、チャンパー(Campa)である[Slide 5 12KB]。文面から必ずしも明らかでないのは、チャンパーがカニシカの支配下にあるのか、それとも東部国境の先の最初の都市なのかである。後者の場合でも彼が北インドをパータリプトラまで支配したということは、十分注目に値する。
碑文の主要部は、おそらくはラバータクの地にあった、広範囲におよぶ神殿の建設に関係する。9-10行目には、この神殿で礼拝されるべき神々が列挙されている。このリストはとても面白いもので、一方でクシャーン朝の貨幣銘には全く登場しない二体のゾロアスター教の神格を含み、他方では、貨幣銘にしばしば登場する多くの神々の名前を落としている(たとえば月神マーMaや豊饒の女神アルドゥフシュArdukhsh)。イラン系の神々のリストのうえに小さな文字で単語が幾つか加えられているが[Slide 6 22KB]、これはこれら神々の一部(または全部)をインド名で同定しようとしているようである(たとえばマハーセーナMahasenaやヴィシャーカVishakha)。
この神殿は、神々と並んで王達の彫像をも祭ることになっていたようである。カニシカは4人の王を挙げる:彼の曽祖父のクジュラ・カドフィセス(Kujula Kadphises)、祖父のヴィマ・タクトゥ(Vima Taktu)、父のヴィマ・カドフィセス(Vima Kadphises)、そして彼自身カニシカ(Kanishka)である。このリストは極めて重要である。まず、ヴィマという名の王が、一人ではなく二人いたということをはっきり示している。今までヴィマ・カドフィセスのものとされていた碑文の幾つか、とくにダシュテ・ナーウル(Dasht-e Nawur)のバクトリア語碑文[Slide 7 9KB]は、今やカニシカの父のタクトゥのものとすることができる。また貨幣の系列からいうとクジュラとヴィマ・カドフィセスの間に来るが、ソーテール・メガス(Soter Megas ギリシア語で「偉大なる救済者」)の称号を持つのみで無名の王の貨幣は、ほぼ確実にこの新たに発見されたヴィマ一世のものとするべきだろう。さらに、クジュラ・カドフィセスがカニシカの曽祖父であったという事実は、カニシカの治世の絶対年代というしばしば論議される問題に影響を与えざるをえない。カニシカが、クジュラの後の三世代目に属するということは、クシャーン朝の初期の系譜を再建する方法に、自ずからある種の制限を課すことになるだろう。私はここで、新発見の事実が唯一の年代決定とだけ両立するとまで言うつもりはないが、今までに提案されてきた様々な解決が再検討されなければならないのは明らかである。
14-17行目に、カニシカの命令を実行する任を与えられた官吏が言及されている。その中にヌクンズクという人物がいるが、これは多分後にスルフ・コタル碑文に描かれた仕事の責任者であった者と同一人物だろう。ラバータクで30年前には、かれはカラールラング(karalrang「辺境侯」)という称号を持っておらず、明らかにより下位の地位だった。碑文の読解できる部分の最後には、カニシカの健康と幸福への祈願と、私の読みが正しいならば、彼の治世が千年も続くようにという希望を述べている。
もちろんカニシカの治世もクシャーン王朝も千年も続きはしなかった。西暦224年頃ササン朝がイランで権力を取った[Slide 8 9KB]。そして何年も経たないうちにササン朝はバクトリアを征服し、その後の時代のある時期、彼らはクシャーン・シャ−(Kushan-shah「クシャーンの王」)と呼ばれる副王を通じて支配した。これはしばしばササン朝の王家の王子の一人があてられたのである。さらに後代になってバクトリアは何度も北方からの遊牧民によって侵略された。異なった時期によって侵略者は異なった名前で呼ばれる ― ヒョーン(Chionites)・キダーラ=フン(Kidarite Huns)・エフタル(Hephthalites)―など。ただしこれらの名前がすべて同じ民族をさすのか、それぞれ違った民族をさすのかは明らかでない。つぎにやって来たのはチュルク族で、彼らは6世紀中頃ササン朝と結んでエフタルを滅ぼした。そして最後にこのような地方小王朝はすべてイスラムとアラブ人の到来によって押し流されてしまったのである。
ササン朝のクシャーン・シャ−の時代からアラブ人の到来までの時期は、第二の発見が関係する。1991年の12月、新たに発見された皮に書かれたバクトリア語文書の写真が私に示された。文書は両面に書かれ、草書体のバクトリア語で合計28行ある。これはそれまで知られていた草書体のバクトリア語の資料を量的にはるかに凌ぐものだった[Slide 9 12KB]。この文書は明らかに手紙であり、冒頭は定型的な宛て名と挨拶の文句で、ソグド語の手紙に用いられているのとほとんど同じである:「閣下の僕なる某より、閣下に千回万回もの挨拶と敬意を捧げたてまつる。閣下の健康なるを聞き幸せに存じそうらえども、もし臣自ら閣下の健康なるを見、また敬意を捧げたてまつるを得ば、さらに一層幸せならん、云々」。ここにあらわれる人名、たとえばオーフルマズド(Ohrmazd)・フワスラウ(Khwasraw)などから、この文書はササン朝に属することがわかる。もう一つ驚くべき名前は、プルラング・ズィン(Purlang-zin)で、明らかに「豹の皮をまとった男」を意味しており、ペルシアの叙事詩の英雄ロスタムの呼称ズィーネ・パラング(zin-e palang)から来ているものだろう。
このような文書一つでも大変な新発見といえるだろう。しかし、その後続々と現れたものに比べると、これもほとんど取るに足らないものに見える。以後5年間のうちにバクトリア語文書の総数は、100点に達した(その大部分は今ロンドンのデヴィッド・ハリーリ博士Dr David Khaliliの蒐集に含まれている)。これらの文書は何人もの古物商や収集家の手を経て来ており、ほとんどの場合その出土地についての記録はない。もっとも幾つかはサミンガーン(Samingan)で発見されたといわれており、多分そのとおりであろう。内的な根拠、とりわけくり返し現れる同一人物の名前から、全部とは言わないまでも大部分の文書は、究極的には単一の出土地にさかのぼることは明らかである。
文書の多くは手紙で、そのうち幾つかは封をしたままで完全に保存されている。このスライド[Slide 10 4KB]にあるのは、手紙が粘土の封印で封をしてある状態で、外側に宛て名が書かれている。そして次のスライド[Slide 11 10KB]は同じ手紙を開封したところで、左側に広いマージンがある文面の標準的なレイアウトを見ることができる。また封印は、手紙の底辺を片端だけでつながっているように細く切って作った皮ひもに付けられている。
保存状態はよくないが、クシャーン・シャーに言及している手紙は特に重要である[Slide 12 12KB]。その年代は、クシャーン・シャーの支配が終わった4世紀後半以後のものではあり得ない。問題のクシャーン・シャーは、その名前の読みは確実とはいえないが[Slide 13 10KB]ワラフラン(Warahran)と呼ばれているようだ。ワラフラン(またはバフラムBahram)というのは貨幣銘から知られている最後のクシャーン・シャー(最後の二代のクシャーン・シャー)であるので、この手紙はクシャノ・ササン朝の一番最後の時代に属する。手紙の送り手は、王女の娘ドゥフト・アノーシュ(Duxt-anosh)で、この名前はパリにある印章にも見いだされる中期ペルシア語である。内容ははっきりしないが、ダスシュ=マレーグ(Dathsh-mareg「創造主の召し使い」)という注目すべき名前の宦官に関係している。この名前はバクトリア語のmareg「召し使い」とアヴェスタ語の属格形dathusho「創造主の」の複合語で、後者はおそらくバクトリアで用いられたゾロアスター教のカレンダーで、暦の(創造主にささげられた)日の名前として使われたものだろう。
次のスライド[Slide 14 9KB]の手紙は二つの理由で重要である。第一に筆者はササン朝のシャーハーン・シャー(Shahan-shah「王中の王」)、すなわちイランの支配者の代理で、したがってバクトリアがササン朝の支配下にあった時期に書かれたものである。第二に、どの紀元かは明言してないが年号が記載されているのである。
ここで用いられた紀元はほぼ間違いなく、パキスタンのトチ渓谷のバクトリア語碑文[Slide 15 11KB]に用いられたものと同じである。トチ碑文は、アラビア語・サンスクリット・バクトリア語からなり、これら三つの異なった紀元を用いた日付を含む。バクトリア紀元の出発点を決定するために決定的な証拠は、二つの二言語碑文にある。そのうち一つはアラビア語=サンスクリットで、[Slide 16 13KB]アラビア語版は当然ヘジラ暦の紀年であり、これにはまったく曖昧なところがない。これと比較することで、1000の単位と100の単位を省略しているサンスクリット版の紀年を完全にすることができる。第二の二言語碑文は、サンスクリットとバクトリア語で、ここでもサンスクリットの紀年は省略表記である。しかし、これがアラビア語=サンスクリットの碑文と同じ世紀に属するものと想定すれば、省略された桁を補うことができ、西暦に換算すると863年という年が得られる。バクトリア語版の年代は、ギリシア語数字で書かれている。最初にこのバクトリア語のテクストを出版したヘルムート・フンバッハ(Helmut Humbach)はこれを632と読んだ。新たに発見された資料に基づいて、私は最後の数字を2ではなくて1と読みたい。もっとも1年というのはささいな違いである。いずれにせよ、バクトリア語の紀年は、ササン朝の初め頃(フンバッハの場合232年、私の解釈では233年)を出発点とする一つの紀元の存在を示す。私はフンバッハにならってこれを「クシャノ=ササン朝紀元」とみなしたい。その出発点はおそらくクシャーン帝国のササン朝による征服だったろう。
さてここで先のバクトリア語の手紙に戻ることにしよう。この手紙の紀年は239年である。もしその紀元が西暦233年であったら、239年目は西暦471年になる。これはペーローズ(Peroz)の治世であり、彼はその治世の大半をエフタルとの戦いに費やして、最終的には戦闘の中で敗死したのである。この手紙の、シャーハーン・シャーという肩書きに先立つ単語がまさにPirozであるのは偶然だろうか?残念ながら中期ペルシア語の単語perozは固有名詞であるだけでなく、「勝ち誇る」という普通の形容詞でもあり、したがって「王中の王、ペーローズ」と取るべきか「勝ち誇る王中の王」と取るべきか決しかねるのである。
新たに発見されたバクトリア語文書のうち宗教的なものは二点のみである。どちらも仏教文献で、仏陀・菩薩等々に対する呼び掛けを含む。このスライドのもの[Slide 17 16KB]は特に興味深い。これは普通と違って皮ではなくて布に書かれている。絵には二つの姿があり、おそらくは仏陀と苦行者だろう。本文の初めには「すべての仏陀達」と歴史上の釈迦牟尼に至る5人ないしは6人の過去仏に対して祈祷が捧げられ、続いて6人の菩薩、さらには夜叉(yaksha)の王、羅刹(rakshasa)、キンナラ(kinnara)、ナーガ(naga 龍)、ピシャーチャ(pishaca)などなどと続き、最後に神々の王帝釈天(Shakra)と偉大なる梵天(Brahma)が続く。これら登場人物の名前の全部が解読できたわけではないが、ここまではテクストのあらすじははっきりしている。最後の3行はもっと難しいが、仏教の僧院(vihara)や寺院のことを語っているようである。
文書はほぼ完全で、幾つか小さな破れとか穴があるだけである。その一部はわざとあけられたように見え、旗のように棒につけられて神聖な場所に奉納されたものか、あるいはお守りだったのだろう。
手紙に続いて大きなグループは、契約文書や売買・貸与・保証・受領・贈与などなどの記録からなる法律文書である。特に興味深いのは、一通の結婚契約書で、これは紀年のある文書のうちもっとも早いものでもある。この中である女性が、二人の兄弟と同時に結婚することを約束している[Slide 18 26KB]。榎一雄教授が名高い論文「エフタルの民族について」 "On the Nationality of the Hephthalites"で議論した一妻多夫制は、おそらくこの地域では典型的だったのだろうが、ここに第一次資料によって確認されるのである。もう一つの珍しい文書は[Slide 19 20KB]、目下鎌倉のシルクロード研究所の所有だが、奴隷解放文書で、ある奴隷が代わりの者を購入したことの見返りに解放されることを記している。
手紙や仏教文献と違って、これらの法律文書は常に紀年を持っている。私の知る限り20以上の文書が、110年から549年までの紀年を持ち、これは(バクトリア紀元が西暦233年に始まったと想定するならば)西暦の342年から781年に相当する。4世紀を越えるこの期間は、ヒョーン・キダーラ・エフタル・チュルクの時代をカバーし、さらにイスラム時代にまでおよぶ。以下で見るようにこれらの文書の内容は、細かな点で年代論的な枠組みをテストすることを可能にする。
たとえば、次のスライド[Slide 20 12KB]は、295年(私の解釈では西暦527年、つまりエフタルの支配期)の紀年を持つ土地の売買契約書である。この紀年は、テクストにも「財産に課せられたエフタルの税は支払い済」という文句があって内容とも符号する。文書の形式は典型的で、ただこの文書は他に比べて例外的に保存状態が良い。同じ内容の完全な写しが二通あり、一通は読めるように開封されているが、もう一通はきちんと巻かれていて、ひもで縛られ五つの封印で封をされている。その五つのうち二つは、売り手の指の爪の跡をつけてあり、他の三つは証人の印章が押してある。おそらくはこの封印された写しは、訴訟の際に裁判官の前で開封されるためのものだったろう。文書の裏側[Slide 21 5KB]には、封印のためのひもを通す穴の脇に売り手と証人の名前が書かれている。
これらの法律文書の多くは、日付のほかに地名を含み、中にはそれが書かれた場所の名前もある。[Slide 22 10KB]幾つかの文書は、それが書かれたのはサミンガーン・ローブ(Rob =現在のルーイRuy)・マルル(Malr)ないしはマドル(Madr)・カハ(Kah=現在のカハマルドKahmard)である、と記している。この四つの地名は明らかに、多数の文書で「ローブのハールKhar」と呼ばれている領主の管轄に属していた。一方でオクサス河の北のタルミド(Tarmid、ないしはテルメズTermez)と、他方でカハとマドルからかなりの山岳地帯で隔てられているバーミヤーンは彼の王国の領域外だったろう。ローブのハールとは疑いもなくタバリーの歴史に伝える、ヘジラ暦91年(西暦710年)にクタイバ・イブン・ムスリム(Qutayba b. Muslim)がエフタルの反逆者ネザク・タルハン(Nezak Tarkhan)を制圧するのを助けたルーブ(Ru'b)とスィミンジャーン(Siminjan)の領主ルーブ・ハーン(Ru'b-Khan)その人であろう。
私の思うには、kharというのは古代イラン語の*xshathriya-「領主」に由来するイラン語方言形(ただし必ずしもバクトリア語ではない)である[Slide 23 11KB]。本来のバクトリア語形はsherであり、これはムスリムの著作家達がバーミヤーン・ガルチスタン(Gharchistan)やその他の古代バクトリアの周辺地域の領主達の称号として言及しているものである。ローブの領主は、時には文書に現れる上記の地名が示すよりも広い範囲を支配したかもしれない。たとえば、おそらくは480年頃の紀年を持つ一通の手紙で、ローブのハールはいくらか誇大に次のように呼び掛けられている:「エフタルのヤブグ(yabghu)、エフタルの王侯の書記、トハリスタン(Tukharistan)とガルチスタンの裁判官」。トハリスタンはローブとサミンガーンを含んでさらに広い範囲をカバーするヒンドゥークシュの北側の地域である。ガルチスタンは普通バーミヤーンの西側の山地を指すが、バクトリア語の形は単に「山地人達の土地」という意味なので、トハリスタンの南の山地を一般的に指しているだけかもしれない。
もう一通の文書はワルヌ(Warnu)という場所で書かれている。これは間違いなくアリアーノスがバクトリアの二つの主要な都市の一つとして言及しているアオルノスAornosだろう。ポール・ベルナール(Paul Bernard)等によれば、アオルノスはフルム(Khulm)ないしはタシュクルーガン(Tashkurgan)の近くであり、ローブとサミンガーンを含むフルム川渓谷が平地に向かって開けるところである。バクトリア語文書のコレクション全体がほぼ確実にローブの代々の王の宮廷文庫から来ている以上、この文書がこの文庫の中にあるという事実からワルヌもまた彼らの支配地域に含まれていたといえるだろう。
次にご紹介したいのは[Slide 24 11KB]奴隷の売却契約書である。冒頭は次のようになっている:「紀元446年、アーブ(Ab)の月、ワフマン(Wahman)の日、この封印された文書、すなわち奴隷売買契約書が、ここサミンガーンのマローガーン(Marogan)なるローブのハールの宮廷で書かれたとき...」。446年というのは西暦678年である。この頃までにはチュルク系の名前や称号が一般的になっており、それは後に続く証人のリストにも見られる:「ここマローガーンで崇拝される驚くべき神、恩恵を施し願望をかなえるラーム・セート(Ram-set)神の加護の元に、ローブのハール、シャーブール(Shabur)の子ジュン・ラード(Zhun-lad)、成功と繁栄に満ちたハガン(qaghan)、タパグルグ・イルテビル(tapaghligh iltabir)の庇護のもと、宮廷にて、タルハン(tarkhan)・フサル(Khusaru)の面前にて、ローブのハールの勇猛なる主席判事デーヴラーズ(Dev-raz)の面前にて、またその他この場にいて本件につき証人となる貴族達の面前にて」。この文書もまた元は五つの印章で封印されており、その印章の所有者名は文書の背面に書かれている。注目すべきは、証人の印章にラーム・セート神のそれも含まれることで、多分この神の僧侶が代理として押したのだろう。同じやり方で他の文書にはオクサス河の神格化されたワフシュ神(Wakhsh)が証人の中に加えられている。
文書は次のように続く:「さて、目下ここサミンガーンに滞在中のフワーストゥ(Khwastu)の住人、カウ(Kaw)の子なる私ヤスクル(Yaskul)と私イェズドギルド(Yezdgird)、及び我らの兄弟達と息子達は、ガバリヤーン(Gabaliyan)と呼ばれる地所の所有者、バグ・マレーグ(Bag-mareg)の子、汝ファンズ(Fanz)、及び汝ウィナマルグ(Winamarg)、及び汝プスク(Pusk)、及び汝らの兄弟達と息子達、子孫達に、我ら兄弟達の所有になるハラス(Khalas)という名の少年を、豊饒の時と飢渇の時を通じて養うこと能わざれば、ペルシアのドラフマ3枚にて、売却せるものなり。今や前記の少年は、今後未来永劫にわたって、正しくも合法的に、汝ファンズと汝ウィナマルグ、及び汝らの兄弟達、息子達、子孫達の所有物なるべし」。
このような引用で、これらの文書の法律用語の様子がある程度わかるのではないかと希望する。ちなみに、この点については中央アジア出土のソグド語やトルコ語など他の言語で書かれた文書のみならず、紀元前五世紀のエジプトのエレファンティネ(Elephantine)出土のアラム語の文書からも多くの類似した表現を見いだすことができる。
次の文書[Slide 25 11KB]はバクトリア暦の478年(つまり西暦の710年)、第二の新年の月」の紀年がある。その内容はカミルド(Kamird)神とそのケード(ked)、つまり僧侶に対する土地と奴隷女の奉納で、奉納主の家族の病気を癒したお礼のようである[Slide 26 10KB]。Kamirdというのは、文字通りには「頭」ないしは「首領」で、多分神の名前というよりは称号だろう。Kedという語はまず間違いなく、玄奘がヒンドゥークシュの南のザーブリスタン(Zabulistan)の神ジュン(Zhun)の崇拝者達の呼称としてあげている中国語の「計多」注の元になっていた語だろう。この神はローブ王国でも知られていた。前にあげた文書にでてくる領主の名ジュンラード(Zhun-lad)は、文字通りには「ジュンによって与えられた」という意味である。そうするとこの文書でKamird「主(神)」と呼ばれているのもジュンであった可能性が高い。またローブの南の山中のニガル(Nigar、ドゥフタレ・ヌシルヴァーンDukhtar-e Nushirvan)の洞窟の聖域に祭られている謎の神体もこの神かもしれない。[Slide 27 8KB]
注 (訳者注) ここで言っているのは『大唐西域記』巻十二の冒頭の一節のことで,著者の解釈はポール・ペリオ(Paul Pelliot)他の学者の説に基づいている.
この文書で奉納主として現れるのは、領主の妃でチュルク系の名前「クトゥルグ・タパグルグ・ビルゲ・セヴュグ」Qutlugh Tapaghligh Bilga Savug (幸運な・奉仕をもてる・賢い・愛されし)で呼ばれているが、「ハラスKhalasの王女」とも呼ばれている。このハラスというのは、前にあげた文書に出てきた奴隷の少年の名でもあったが、チュルクの種族名ハラチKhalachであって、この文書がそのもっとも早い記録となる。
バクトリア語文書で時代的にもっとも遅いもののうちに、525年(西暦757年)の紀年を持つ売買文書がある[Slide 28 13KB]。ここではこの文書の二・三の文句に注意を喚起したい。その第一は、財産の新しい所有者の権利を列挙した部分である:「(それを)持つこと、維持すること、売却すること、贈与すること、質入れすること、貸与すること、別の土地と交換すること、息子の結婚のために、または娘の持参金として与えること、寺院または神殿を作ること、*墓地または*火葬所を作ること、云々」。この最後の部分で、仏教寺院を表すインド系のヴィハーラviharaとバクトリア語の「寺院」が対照されているが、後者はおそらく非仏教的神殿を意味するのだろう。同じような対照が死者を葬る場所を表すその次のペアにも見て取れる。ラフミグlaxmigはアヴェスタ語のdaxma-、中期ペルシア語のdaxmagに対応する。これらの語は普通ゾロアスター教の死体を晒す儀式に用いられる施設を意味するが、時には墓地の意味でも用いられる。他方で、ラフシャタニーグlaxshatanigは、もしこれが語根daxsh-「燃やす」から派生しているのなら、必然的に非ゾロアスター教的、おそらくはインド的な、火葬の儀式を表すことになる。これらの術語に加えて、文書の中で多く見られる神々の名から作られた人名は、イスラム以前のこの地域のさまざまな宗教の信仰と実践のありさまを垣間見させる。
しかしながらローブの王国の独立はやがて終末に至る。初期の契約文書は、価格を金のディーナールやペルシアの銀で表していたが、もっとも後期のテクストではそれが「アラブの銀のディルハム」になり、しかも「現地で流通している」という断り書がつく。さらに、この文書では初めて(そしてこれが最後だが)アラブ人への税金の支払いについて触れる。しばらく後にはアラビア語がバクトリア語に代ってこの地域の書記言語になった。少数のアラビア語文書が発見されているが、これらは同じ文書庫の継続であるものと思われる[Slide 29 12KB]。
さて以上述べたところで、この膨大な新資料のほんの一部について紹介したわけだが、これが古代アフガニスタンの歴史と文化のさまざまな側面に新しい光を投じるものだ、ということは十分ご理解いただけたものと思う。ただ、この資料がイラン語の歴史言語学にもつ重要性についてはほとんど触れることができなかった。私にとってはむしろこちらの方が関心の中心なのだが。
このスライド[Slide 30 17KB]にあるのは、イラン諸語の中でバクトリア語が占める位置を示すための幾つかの代表的な語形である。特に私が選んだのは、バクトリア語とその周囲の地域の言語、中世のソグド語とホラズム語・現代のパシュトー語・イドガ=ムンジー(Yidgha-Munji)語・イシュカーシュミー(Ishkashmi)語、の関係を示す語形である。ヘニングが最初にこの新しい言語のことを知った時に「この言語はバクトリアにその自然かつ正当な場所を持っている」という結論を引き出したが、これらの語形はそれを支持するものであり、またこの言語をバクトリア語と命名した彼の決断の正しさを示している。
新資料が、今まで限られた材料に基づいて提出されていた見解を裏書する場合もあり、またそれに矛盾する場合もある。たとえば、ゲルシェーヴィッチI. Gershevitchによるスルフ・コタル碑文のlruh-minanという形の解釈、すなわち想定された*lruh-min「敵」という語の複数形、には賛否両論あったが、新資料にある後代の形druh-minの文脈から、彼の見解は強く支持される。また特に印象的なのは、マーティン・シュワーツMartin Schwartzが中央アジアのその他の言語への借用語から存在を想定したが、バクトリア語としては知られていなかった多くの形が新資料で証明されたことである。[Slide 31 17KB]
もちろん新資料には今までその存在が全く知られていなかった形が多数ある。たとえば、スルフ・コタル碑文に出てくる動詞形は、二三の単純過去形と現在希求法形だけだったが、いまや、これらの時制ばかりでなく、直説法現在・接続法・命令法のほとんど完全なパラダイムを引用することができ、さらには完了接続法と希求法の形も幾つか知られてる。バクトリア語の幾つかの特徴は極めて予想外だった。たとえば不定詞には、ソグド語やコータン語と同じように二つのタイプがあり、また接続詞・副詞・前置詞・代名詞などの連続を融合させて複雑な単語を形成する傾向がある: たとえば、o-ta-kald-man「そして・その時・〜の時に・我々に」。多くのテクストが紀年を持っているということから、この言語の歴史的発展を跡づけることができる。たとえば、7世紀以後のテクストでは、lとrが連続する時、lがdに変化する(上に引用したlruh-min「敵」が後にdruh-minとなるように)。
今までバクトリア語はイラン諸語の一族の中で貧しいメンバーだった。つまり自ら与えるものは何もなく、他から利するばかりだったのである。いまやバクトリア語は、それほど不明の存在ではなく、問題だけでなく解決をも提供できるようになった[Slide 32 12KB]。たとえば、アヴェスタ語のaxvareta-を伝統的にパフラヴィがagrift「取られなかった」と翻訳するのを、多くの学者は間違いだとみなしてきたが、バクトリア語の対応形は逆にこれを正統化する。同じく、中期ペルシア語の語形bun-xanag(文字通りには「基礎・家」)の意味については盛んに論争されたが、対応するバクトリア語形は明らかに「地所」、つまり「家と土地」を意味する。偉大なムスリムの学者アル・ベールーニーが言及するある地名が、現代の学者の編集によって校訂本から削除されてしまったが、バクトリア語資料により写本の正しいことが証明された。バクトリア語の不定詞migd「交換する」には、ギリシア語にはあるがより近い関係のどの言語にも失われている印欧語の動詞語根が見いだされる。
バクトリア語の文書と碑文の完全な解明には、多くの分野の専門的知識を必要とする:古文字学・金石学・歴史学・歴史地理学・宗教史学・貨幣学・印章学・アラビア語学・トルコ語学・中国語学、等々。一個人ですべての分野に通じることは不可能なので、このような仕事には幾つかの学問分野の学者の共同作業を必要とする。そのような共同作業の出発点は、テクストの解読と、最初の試訳的な翻訳の作成であろう。これは文献学者の仕事である。彼は自らの言語的直感と親縁関係にある他の言語の知識に基づいて、未知の言語の単語の意味と文法構造について仮説を組みたてる。この予備的作業なしには、他の誰にとっても研究する対象すら存在しない。文献学は、時には時代遅れの学問分野とみなされるのだが、私は喜んで自分自身を文献学者と呼ぶつもりだ。そして、こうして皆さんに文献学的研究の必要性と、その成果を十分に示すに足る新資料を紹介する機会を得たことをうれしく思っている。 (訳:熊本 裕)
(c) N. Sims-Williams 1997
Japanese translation (c) Hiroshi KUMAMOTO 1997
上に引用された文書の大きな写真