マルト語との出会い
インド、ジャールカンド州は少数民族が多く住む州である。ウラオン族の話すクルフ語の調査のため、筆者が州都ラーンチーを訪れていたとき、クルフ語の姉妹言語であるマルト語を話すパハリア族に会いたいと思い、人づてに探した。ラーンチーでは結局誰にも会えず、思い切って夜行バスに乗り、パハリアが住むラージマハル丘陵に出発したのが六年前のことであった。ふもとの町で尋ね歩いても誰にも会えず、諦めかけていたとき、ふとした偶然でマリパラ村の教諭、筆者のマルト語の先生であるグヒア・パハリア氏に出会ったのだった。現在ではマリパラの他八つのパハリアの村を年二回訪れて、言語調査と口碑採集を行っている。
パハリアはインドの少数民族(指定部族)の一つで、ヒンディー語で「山の民」を意味するその名の通り、山の頂上や尾根に村を作って暮らす人々である。彼らの話すマルト語は、ドラヴィダ語族の言語なのにこのような北の地方で話されていて、周辺言語に同化されずに存在していること自体「奇跡に近い」と言われている。パハリアの住むラージマハル丘陵は、今ではサンタル族などによる入植が進んでいるが、かつてはトラや風土病のため、容易に人を寄せつけない土地だったという。どこからここにドラヴィダ語を話す民族がたどり着いたかはまだ分かっていない。
「孤高の民」からどうやって話を聞くか
筆者は調査を始める前、パハリアのことを「孤高の山の民」「弓ひとつでトラでも仕とめる剽悍な狩人」などと聞き、やや感傷的な山岳民のイメージを勝手に抱いていた。パハリアの村に調査に行ってもすぐに話を聞くのは難しいと聞いていたので、初めからいきなり村に行くのでなく、州政府がパハリアのために運営している寄宿制の高校に行き、校長先生の許しを得て、まずは高校生に聞き取りを行うことにした。共同研究者の大学院生バブル・ティルキ君は快活な若者で、しかも彼自身ウラオン族の出身なので、調査のかたわら進路のアドバイスをするなど、パハリアの高校生とすぐに親しくなった。そこで思い切って、「君の村に連れて行ってよ」と頼んでみると「いいですよ」という返事で、校長に外出許可を頂いて村に出かけた。村では村の子の友達ということで、さほど警戒せず受け入れてもらえ、そのうち村の大人からも話を聞けるようになった。
一口にパハリアの村といっても、忙しくてあまり調査に協力してくれない村もあれば、人だかりができて村人が次々と民話を聞かせてくれる、フォークロアの豊かな村もある。概して前者は町や幹線道路に近い村で、すぐに来訪の目的を理解して調査に協力してくれるが、まとまった話を聞きだすのは難しい。後者は市の立つ町から何時間も歩かねばならないような山奥の村で、そのような村には気むずかしい村人も多く、やっとの思いでたどり着いても「今日は口をききたくない」とか「あたしゃ酒を飲まないとお話はしないよ」などと言って話を聞けないこともある。しかしラジオも電話もなく、いろりを囲んで昔話を語るような暮らしが残っているので、一話二時間というような「大作」の民話にめぐり合えるのもこのような山奥の村である。
パハリアの村
パハリアの村を訪れる人は、厳しい生活環境に誰もが驚く。乾季ならジープやトラクターで登れる村も多いが、中には険しい山道を歩いて登らないとたどり着かない村もある(写真)。山頂部では、灌漑用水はおろか飲料水の確保もままならず、村人は水汲みと水浴のために何キロも歩いてふもとの水場に行くという。そうまでしてなぜ山の上に住んでいるのか。
村人によると昔はもっと下の平地に住んでいて、その証拠に先祖の墓地も平地にあるという。英領時代にサンタル族が平地を開墾し、森を失ったパハリアは山頂に移っていった。警戒心が強いのはそのためで、村の老人の話だと、かまどの煙が上がるとそこに住んでいることが知られてしまうから、日の出る前に朝食の調理を終え、日が沈んでから夕飯を炊いていたとか、よそ者が入ってきたら逃げられるよう、どの家にも出入口が二つつけてあった、というほどである。現在ではパハリアの村は平地のサンタルの村に囲まれているので、村人はふつうマルト語とサンタル語のバイリンガルである。学校はヒンディー語で授業するので、パハリアにはドラヴィダ語族、オーストロアジア語族、インド・アーリア語族の三言語併用がふつうに行われていることになる。しかしそれは生活の必要に迫られてのことであり、語学力が彼らの生活向上に役立っているわけではない。
それぞれの村が山頂部にあって隔絶しているせいか、マルト語は村ごとの方言差が大きい。調査をするときには、訪問する村の位置を知りたかったが、これには大変苦労した。地形図は発行されているが、国境地帯のものはほぼ入手不可能で、道路のない所に村があるから道路地図も役に立たない。万策尽きたと思っていると、イギリスの図書館で等高線や村名がびっしり書かれた独立前の5万分の1の地形図を見つけ、身震いを覚えながらコピーした。おかげで村同士の位置関係はもちろん、どの山脈や谷が方言境界になっているかが分かるようになった。たとえばマルト語では、口蓋垂閉鎖音qの代わりに声門閉鎖音ʔを用いる村がある。それぞれの村を地形図で位置づけてみると、山脈が分界になっていて、その東でq、西でʔとなっていることが分かった。
筆者は調査の際に村には泊まらず、機器の充電ができる最寄りの町に宿を取って、そこから車を雇って村に通うことにしている。村に泊まりたくないわけではないが、客ではなく調査に来ていることを明確にしないと大変な歓待を受け、村人に心苦しいほどの負担を掛けるからである。それでも採れたての甘いヤシ酒をふるまわれたり、踊りが始まったりして、調査どころでなくなることもあった。
調査に協力してくれる人にどういう謝礼をするかは現地調査で悩むことの一つだが、同じ少数民族出身であるティルキ君の助言で、現金では謝礼をしないことにしている。まず村人自身が善意で協力してくれているので、受け取ってもらえないし、現金を出すことで村の人間関係を損ねることもあるという。村人はむしろ、外部の友人として長いつき合いを望んでいるようである。人口が少ないため代議士を送り出せず、外部に声を届けにくいパハリアにとって、州都ラーンチーにティルキ君のような友人がおり、何かあれば有力者に取り次いだり新聞に投稿したりして応援してくれるのは、ささやかでも心強いことであるらしい。
筆者もいろいろ考えて、最近は持参のデジタルカメラで村人の家族写真を撮り、大きく引き伸ばして贈っている。一家族一枚ずつ撮れば不公平にならないし、村にはまだカメラはないのでみな喜んでくれる。それに何より、写真を届けに来るということが、村を再び訪れるよい理由になるのだ。
さきにパハリアのことを狩人と言ったが、実際は儀礼として狩猟を行うだけで、焼畑によるトウモロコシ、アワ・ヒエ、豆の栽培が主な経済活動である。現在では中年以下のパハリアは他のインド人と変わらない服装をしているが、昔は男性は下帯、女性はルンギーと肩衣を身につけ、男女とも髪は切らず、男性はターバンで巻きつけていた。顔や腕に刺青を入れる習慣で、刺青をしない人とは付き合いもせず、村の墓地に埋葬もさせなかったという。
パハリアの古来の宗教はヒンドゥー教とは異なり、太陽男神を中心とする多神教である。トウモロコシ、豆、マンゴーなどの収穫祭では収穫物が捧げられ、個人の儀礼では鶏や山羊などの動物供犠が行われることが多い。その最も大掛かりなものは、先祖の供養に行われる水牛の犠牲祭である。
パハリアの若者が一人前になると、村の大人たちが縁談を世話する。サンタル族のようなトーテムのタブーがないので、同じ村の若者同士でも結婚することができる。思いを寄せる女性がいたら、男性はお菓子をハンカチに包んで渡し、女性がそれを半分食べて返せば交際OKの印になる。恋愛結婚や駆け落ちも少なくないが、村人たちに認めてもらわないと村に住むことはできない。
マルト語の現状
パハリアはこの地方の少数民族のうちでもっとも経済的に立ち遅れているといわれる。逆説的だが、そのためにマルト語はよく保存されており、村の中では若者でもマルト語で話している。
姉妹言語のクルフ語の場合は、話者のウラオン族が二百万近い人口をもつ反面、クルフ語を話せる人口はそのごく一部で、それも年々減少している。ウラオン族は他の民族とともに平地に住み、教育や雇用や結婚のため移住する人が多いので、今では家庭内でもクルフ語ではなく、ヒンディー語や地域共通語のサドリ語で話すようになっている。人口の流動性が少なく、村全体で貧しさを分かち合って暮らさねばならないパハリアが自分たちの言語をよく保持していることには、複雑な気持ちにならざるを得ない。
筆者は言語調査のかたわら、民話や村のしきたり、あるいは自らの半生記を語ってもらい、それを書き起こして訳をしたものを書きためている。準備もなしにその場で語ってもらったものなのに、これが味のあるいい話が多いのだ。
例えばウルサ・パハール村では、この地方に広く伝わる「七人の兄弟と一人の妹」という長い民話を聞いた。七人の兄が妹を残して狩に出た後、兄嫁たちが「穴の開いたかめに水を汲んでこい」などさまざまな難題で妹を困らせ、妹はそのつど切り抜けていくが、ついにはいじめ殺されてしまう。脱穀機で粉々にされた亡骸は井戸端に流されてきて、そこで花になって兄たちの帰りを待つのだが、帰ってきた兄は誰も変わり果てた妹の姿に気がつかない。最後に帰ってきた一番下の兄が花の歌を聞いて妹であることに気付いたとたん、妹は人間の姿をとりもどす。その兄は妹をいじめ殺した兄嫁と兄たちを殺したあと、さまざまな試練を経て、最後には森の奥で妹と二人で幸せに暮らすという話である。
次はマリパラ村のグヒア・パハリア氏の思い出から。グヒア氏は、お父さんが出稼ぎに行って不在のときにお母さんを熱病で亡くした。ときに6歳、まだ乳児だった妹と二人きりで残され、妹に水を飲ませてしのいだという。お父さんが帰ってきてからは、出稼ぎの元手で牛や豚の肥育を始め、ふたたび家族の暮らしが始まった。お父さんは再婚の勧めも断って、毎朝夜明け前から料理して男手一つで兄妹二人を育てた。グヒア少年は天然痘や黒熱病を生き延び、やがて寄宿学校に入り、苦学の末にその地域で初めて大学入学資格試験に合格する。そうして村に帰って代用教員をしながら畑の手伝いをしていたある日、妹さんにトウモロコシを摘みに行ってもらったところ、毒サソリに刺され、手当ての甲斐もなく息を引き取ってしまう。その晩お父さんは「何でもないさ」と言って、いつものようにご飯を食べていたという。医者もいない山奥で、死と向かい合って生きてきたパハリアの声なき慟泣だろうか。グヒア氏は「一年間泣いては歌い、泣いては歌いして、ようやく心がいくらか涼しくなった」と語っている。その後も語り尽くせないほど苦労された末、今では幸せな家庭を築いておられる。
筆者は二百以上あるというパハリアの村をすべて訪れ、方言地図を作ってマルト語の全体像を明らかにしたいと思っている。しかし村人と親しくなればなるほどその村を素通りしがたくなるという、うれしいジレンマに最近は悩んでいる。